月別アーカイブ: 2015年5月

ミニの女王・ツイッギー来日

ミニの女王・ツイッギー来日

昭和42年10月18日、「ミニの女王」ツイッギーが来日

本名は、レスリー・ホーンビー(Lesley Hornby・イギリス)

ニックネームのツイッギー(Twiggy)は、「小枝のような」という意味

日本でも、あっという間に「ミニスカート・ブーム」が過熱

スカートが変われば、それに合った衣服を揃えなくてはならず、パンティストッキングが普及したのも、これがきっかけ
経済効果に大きく貢献した

記者会見やCM撮影などの仕事をこなし、11月8日に帰国

新三種の神器

新三種の神器(しんさんしゅのじんぎ)

カー、クーラー、カラーテレビの3Cが「三種の神器」と言われ始めたのが昭和41年

トヨタ・カローラ1100が発売されたのも、この年の11月
排気量はライバルのニッサン・サニーより100cc大きく、「隣の車が小さく見えます」と宣伝した

我が家に3Cは一つも無かった
幼児用の三輪車、扇風機、白黒テレビだったね
3C全てが揃ったのは、何年も後のことだ

第2回日本グランプリ自動車レース大会

第2回日本グランプリ自動車レース大会

1964年(昭和39年)5月2日と3日に、三重県の鈴鹿サーキットにて開催された

主催者は日本自動車連盟(JAF)

しっかりとした競技規定が適用された

クラスは排気量で分けられたツーリングカー、GTカー
国内初のフォーミュラカーレースも行われた

中でも語り継がれているのは、GT-II(1001-200cc)クラス
プリンス・スカイラインGTとポルシェ・904の対決だ
結果はポルシェ・904が優勝したが、1周だけでもスカイラインGTがトップを走ったことは伝説となっている

第1回日本グランプリ自動車レース大会

第1回日本グランプリ自動車レース大会

1963年(昭和38年)5月3日と4日に、三重県の鈴鹿サーキットにて開催された

舗装されたレース専用コース(サーキット)での、日本初の本格的な4輪自動車レースとなった

排気量などで10クラスに分けて行われた

出場者は計148人

招待選手以外は、カーマニアのアマチュアであった

自動車メーカーは「日本グランプリには積極的に関与しない」との紳士協定を結んだが、車を改造したり、才能あふれるドライバーを乗せたメーカーもあった

優勝した車種は宣伝効果もあり、急速に販売成績を伸ばした

真面目に紳士協定を守ったメーカーは、翌年のグランプリでは雪辱を果たすべく必勝体制で挑むこととなる

大鵬 、横綱に昇進

大鵬 幸喜(たいほう こうき)横綱に昇進

昭和36年9月の大相撲・秋場所で優勝

ともに大関で、準優勝したライバルの柏戸(かしわど)とともに横綱に推挙され、二人同時に昇進

柏鵬時代(はくほうじだい)と言われる黄金時代を築いた

昭和30年代~40年代の流行語「巨人・大鵬・卵焼き(きょじん・たいほう・たまごやき)」 は、子供たちが好きなものの代名詞だった

安保闘争

安保闘争(あんぽとうそう)

昭和34年から昭和35年、昭和45年の2度に渡り、自民党が日米安全保障条約の強行採決を行った

これ反発した国会議員、労働者、学生らが参加した大規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争である

昭和35年6月15日には、機動隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた学生が圧死
多くの負傷者を出した

日米安全保障条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた

伊勢湾台風が上陸

伊勢湾台風(いせわんたいふう)が上陸

昭和34年9月26日、台風15号が紀伊半島の潮岬付近に上陸し、広範囲にわたって甚大な被害を及ぼした

伊勢湾沿岸の被害が特に甚大で、伊勢湾台風と名づけられた

死者4,697人・行方不明者401人・負傷者38,921人・被害家屋833,965戸

犠牲者の72%が高潮によるものだった

室戸台風、枕崎台風とあわせ、昭和の三大台風の一つに挙げられている