投稿者「admin」のアーカイブ

admin について

ニ丁目に住んでいた時代について 自分が好きだった”ニ丁目に住んでいた時代”を綴ります。 昭和40年代が中心です。 今は別の地で一丁目に住んでいますが、あまり好きではない・・ 年齢とともに薄れる記憶を、ブログに書き残すことにした。 関連サイトから画像や記事の引用をしています。

ハイセイコー競馬ブーム

ハイセイコー競馬ブーム

国民的アイドルホース

1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー
その後6連勝を達成

1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍

不敗神話をもつ「公営競馬の怪物」として大きな話題を集めた

中央へ移籍後も連勝を続け、皐月賞まで不敗が続いた

残念ながら東京優駿(日本ダービー)で破れたが、その後も人気は衰えない

増沢騎手が歌う「さらばハイセイコー」のレコードが発売され、引退に花を添えた

トミカ新発売

トミカ新発売

1970年(昭和45年)9月、トミー(現・タカラトミー)から販売されているミニカーである

6車種、価格180円にて発売開始

小型のミニカーは海外製品しか存在せず、すぐに大ヒットとなった

私も新発売直後のトヨタ2000GTで遊んだ一人です

スマイル・バッジ

スマイル・バッジ

昭和40年代にスマイルマークの商品が流行

1971年(昭和46年)には、バッジなどの商品が大流行した

1963年12月にアメリカの「ハーベイ・ボール」デザインしたと言われる

名称はスマイリー・フェイス(Smiley face)

スマイリー・フェイスは、日本では、「ラブ・ピース」・「ニコニコマーク」・「スマイルマーク」・「ニコちゃんマーク」などと呼ばれた

smile

これが昭和40年代のスマイル・バッジ
古いので汚れが目立ちます

今も変わらず親しまれているマークだ

「男はつらいよ」封切

「男はつらいよ」封切

1969年(昭和44年)8月27日に、映画「男はつらいよ」の第1作が封切られた

「渥美清」が演じる、主人公「フーテンの寅」こと車寅次郎は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人
生まれ故郷は、葛飾区柴又
柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻って来るところから物語が始まる

シリーズは1995年12月公開の第48作まで続いた人気作品

大塚の「ボンカレー」発売

大塚の「ボンカレー」発売

1968年(昭和43年)2月12日に、大塚食品工業よりレトルト食品として発売された

当初は阪神地区で限定発売
袋に難点があり改良して、翌年4月に全国発売された

テレビCMや全国各地で、ホーロー看板を貼って宣伝効果をあげた

「3分温めるだけですぐ食べられる」が宣伝文句

レンジが普及していない当時は、お湯で温めた

大ヒット商品

ミニの女王・ツイッギー来日

ミニの女王・ツイッギー来日

昭和42年10月18日、「ミニの女王」ツイッギーが来日

本名は、レスリー・ホーンビー(Lesley Hornby・イギリス)

ニックネームのツイッギー(Twiggy)は、「小枝のような」という意味

日本でも、あっという間に「ミニスカート・ブーム」が過熱

スカートが変われば、それに合った衣服を揃えなくてはならず、パンティストッキングが普及したのも、これがきっかけ
経済効果に大きく貢献した

記者会見やCM撮影などの仕事をこなし、11月8日に帰国

新三種の神器

新三種の神器(しんさんしゅのじんぎ)

カー、クーラー、カラーテレビの3Cが「三種の神器」と言われ始めたのが昭和41年

トヨタ・カローラ1100が発売されたのも、この年の11月
排気量はライバルのニッサン・サニーより100cc大きく、「隣の車が小さく見えます」と宣伝した

我が家に3Cは一つも無かった
幼児用の三輪車、扇風機、白黒テレビだったね
3C全てが揃ったのは、何年も後のことだ

第2回日本グランプリ自動車レース大会

第2回日本グランプリ自動車レース大会

1964年(昭和39年)5月2日と3日に、三重県の鈴鹿サーキットにて開催された

主催者は日本自動車連盟(JAF)

しっかりとした競技規定が適用された

クラスは排気量で分けられたツーリングカー、GTカー
国内初のフォーミュラカーレースも行われた

中でも語り継がれているのは、GT-II(1001-200cc)クラス
プリンス・スカイラインGTとポルシェ・904の対決だ
結果はポルシェ・904が優勝したが、1周だけでもスカイラインGTがトップを走ったことは伝説となっている

第1回日本グランプリ自動車レース大会

第1回日本グランプリ自動車レース大会

1963年(昭和38年)5月3日と4日に、三重県の鈴鹿サーキットにて開催された

舗装されたレース専用コース(サーキット)での、日本初の本格的な4輪自動車レースとなった

排気量などで10クラスに分けて行われた

出場者は計148人

招待選手以外は、カーマニアのアマチュアであった

自動車メーカーは「日本グランプリには積極的に関与しない」との紳士協定を結んだが、車を改造したり、才能あふれるドライバーを乗せたメーカーもあった

優勝した車種は宣伝効果もあり、急速に販売成績を伸ばした

真面目に紳士協定を守ったメーカーは、翌年のグランプリでは雪辱を果たすべく必勝体制で挑むこととなる